犬も人間と同様に、高齢化が進むと「認知症(認知機能不全症候群)」を発症することがあります。夜鳴きや徘徊などの行動変化は、飼い主にとって大きな懸念事項です。
本記事では、犬の認知症の具体的な症状、考えられる原因、そして日常生活で実践できる予防法やケアの方法について、獣医師が専門的な知見から詳しく解説します。愛犬の行動変化に早期に気付き、適切な対策を講じるための一助としてください。
認知症を発症する犬は珍しくない
犬の認知症は、加齢に伴って脳の神経細胞がダメージを受けたり、機能が低下したりすることで記憶力や学習能力の低下、行動の変化などが表れる病気の総称です。近年、犬の寿命が延びたことで高齢犬が増えており、認知症を発症する犬は決して珍しくありません。
主な症状としては、夜鳴き、昼夜逆転、室内での徘徊、トイレの失敗、飼い主への反応が鈍くなるといった行動の変化が見られます。単なる「老化」と見過ごされがちですが、早期に気付き、獣医師と相談しながら適切なケアや環境づくりを行うことが、犬と飼い主の生活の質を維持するために非常に重要です。
犬の認知症の症状

犬の認知症に早く気付くためには、どんな症状が出てくるかを理解しておくことが大切です。犬の認知症の主な症状としては、以下のものが挙げられます。
- 見当識障害
- 睡眠サイクルの変化
- 社会的交流の変化
- 活動性の変化
- 不安の増大
- 学習したことの忘却
見当識障害
見当識障害は、時間、場所、方向などの感覚が混乱する症状で、犬の認知症において非常によく見られる兆候の一つです。
具体的には、長年住み慣れた家の中や、いつも通りの散歩コースで道に迷うような素振りを見せます。壁や家具の隅に頭を突っ込んだまま動けなくなったり(立ち往生)、ぼーっと一点を見つめて固まったりすることもあります。
また、ドアの開いている側ではなく、壁や蝶番側から外に出ようと試みるなど、空間認識能力の低下が疑われる行動が増えてくることも、見当識障害の特徴です。自分が今どこにいるのか、何をしようとしていたのかが分からなくなっている状態と考えられます。
睡眠サイクルの変化
健康な犬は、飼い主の生活リズムに合わせて夜間にしっかり眠り、日中に活動するのが一般的です。しかし、認知症になると、この体内時計が乱れ、「昼夜逆転」の症状が顕著に表れることがあります。
日中は寝てばかりいるのに、夜になると起き出して活動を始めてしまいます。特に飼い主の負担になりやすいのが「夜鳴き」です。
夜通し理由もなく鳴き続けたり、大きな声で吠えたりすることで、飼い主が睡眠不足に陥るケースも少なくありません。夜間に目的もなく室内をうろうろと徘徊するのも、睡眠サイクルの乱れの一環です。
社会的交流の変化
認知症は、犬の社会性にも影響を及ぼします。飼い主や同居する他の動物との関わり方が、以前と大きく変わってしまうといった症状が表れるのです。
例えば、名前を呼んでも反応が鈍くなったり、飼い主が帰宅しても出迎えに来なくなったり、しっぽを振るなどの喜びの表現が減ったりすることがあります。また、撫でられることやスキンシップを嫌がるようになる、あるいは逆に、以前よりも過度に不安がって飼い主から片時も離れようとしなくなる(分離不安)場合もあります。
中には、認識能力の低下から不安を感じ、急に怒りっぽくなったり、威嚇したりするなど、攻撃的な側面が強まるケースも見られるため、慎重な関わり方が求められるでしょう。
活動性の変化
犬の認知症では、日中の活動量や行動パターンにも変化が表れることが多いです。大きく分けて、活動性が異常に活発になるケースと、著しく低下するケースがあります。
活発になる例としては、特に目的もなく室内をひたすらウロウロと歩き回る「徘徊」や、同じ場所をぐるぐると回り続ける「旋回」が挙げられます。これらは、犬自身もどうしてよいか分からず、不安や混乱から常同行動に陥っている状態です。
一方で、大好きだった散歩や遊びに全く興味を示さなくなり、一日中寝てばかりいる、物事への反応が乏しくなるといった、活動性の全般的な低下が見られることもあります。
不安の増大
認知機能が低下すると、周囲の状況を正しく認識・判断する能力が衰えるため、犬が感じる不安や恐怖が強くなる傾向があります。以前は平気だったはずのささいな物音、例えばインターホンや雷、花火の音などに過剰に怯えるようになるでしょう。
また、視力や聴力の低下も相まって、暗い場所や狭い場所を極端に怖がるようになることも。飼い主の姿が見えないと、パニック状態になったり留守番中に激しく吠え続けたりするなど、「分離不安」の症状が悪化するケースも少なくありません。
これらの行動は、犬が常に精神的なストレスや不安を感じているサインである可能性があります。
学習したことの忘却
認知症は、脳の記憶を司る部分にも影響を及ぼします。その結果、長年かけて学習し、習慣となっていたことを忘れてしまうことが増えてくるでしょう。
最も分かりやすい例が「トイレの失敗」です。何年も完璧にできていたはずのトイレの場所を突然忘れ、いたる所で粗相をするようになります。ひどくなると、自分の寝床など、通常ではあり得ない場所で排泄してしまうこともあります。
また、「おすわり」「まて」「おて」など、基本的なコマンド(指示)に従えなくなったり、教えた芸ができなくなったりすることも多いです。これは、学習した内容を記憶から呼び起こせなくなっているために起こる症状と考えられます。
犬が認知症を発症する年齢の目安
犬の認知症は、一般的にシニア期に差し掛かる10歳頃から発症が見られ始めます。その後、年齢とともに発症率は上昇し、特に12歳~13歳頃から発症することが多いです。
ただし、目安となる年齢は犬の体の大きさによって異なります。加齢のスピードが早いとされる大型犬の場合は8歳頃から注意が必要ですが、小型犬や中型犬の場合は、10歳を過ぎたあたりが一つの目安です。
中には7~9歳で兆候が見られる場合もあるため、シニア期に入ったら愛犬の小さな変化にも気を配ることが大切です。
犬が認知症になる原因
犬が認知症になってしまう明確な原因は、完全には解明されていません。しかし、人間の認知症と同じような脳の変化が関わっていると考えられています。
具体的には、加齢による脳の機能低下、脳内タンパク質の蓄積、血流の低下などです。これらの要因が複雑に絡み合い、脳の神経細胞の働きを妨げたり細胞自体を死滅させたりすることで認知機能が失われ、様々な症状が引き起こされると考えられています。
犬の認知症の治療法

犬の認知症には、特定の検査があるわけではありません。飼い主からの行動変化(夜鳴き、徘徊、トイレの失敗など)のヒアリングを行い、身体検査や血液検査、MRI検査などをして特定の病気が見つからない場合、認知症と診断されます。
残念ながら認知症を完治させる根本的な治療法は確立されていませんが、適切なケアや治療介入を行うことで、症状の進行を遅らせたり、症状を緩和させたりすることは可能です。治療は、主に以下の3つのアプローチを組み合わせて行われます。
- 薬物療法
- 食事療法
- 環境の見直しと生活のケア
薬物療法
脳の機能低下や行動の変化を緩和するため、獣医師の診断のもとで薬が処方されることがあります。脳の血流を改善し、神経細胞に酸素や栄養を届きやすくする「脳循環改善薬」が代表的です。
また、脳内の神経伝達物質(ドーパミンなど)の働きを助け、意欲や活動性の低下を改善する薬が用いられることもあります。特に「夜鳴き」や「徘徊」による不安が強い場合には、犬の精神的なストレスを和らげるために、抗不安薬や睡眠導入剤が一時的に処方されることも多いです。
食事療法
脳の健康維持をサポートするために、栄養面からのアプローチも重要です。近年では、犬の認知機能の維持を目的とした「療法食」が動物病院で処方されます。
これらには、脳細胞のダメージを防ぐ「抗酸化物質(ビタミンC・E、セレンなど)」や、脳のエネルギー源となりやすい「中鎖脂肪酸(MCT)」、神経細胞の健康をサポートする「オメガ3脂肪酸(DHA・EPA)」などがバランスよく配合されています。同様の成分を含むサプリメント(栄養補助食品)を、普段の食事にプラスする方法も有効です。
環境の見直しと生活のケア
犬が感じる不安や混乱を最小限にし、安全に過ごせる環境を整えることも、大切な治療の一環です。例えば、室内で徘徊しても怪我をしないよう家具の角にクッション材をつけたり、滑りにくい床材に変えたりします。
トイレの失敗が増えたら、寝床の近くにトイレを増設したり、おむつを利用したりするのも有効です。また、昼夜逆転を防ぐため、日中はなるべく日光を浴びさせ、適度な散歩や声かけで脳に刺激を与え、夜は静かで暗い環境で休ませるなど、生活リズムを整えることが推奨されます。
犬の認知症を予防・早期発見するためには

愛犬の認知症を予防し、早期発見につなげるためには、以下のことを意識しましょう。
- 新しい刺激を与える
- 定期的に健康診断を受ける
- 小さな行動変化を見逃さない
新しい刺激を与える
脳の老化を防ぎ、認知機能の低下を遅らせるためには、日常生活に「新しい刺激」を取り入れることが非常に効果的です。例えば、散歩のコースを時々変えていつもと違う景色や匂いに触れさせることや、ドッグランやドッグカフェで他の犬と交流をさせることなどが挙げられます。
また、「おすわり」や「ふせ」などの簡単なコマンドを復習したり、知育玩具を使って頭を使いながら遊ばせたりすることも、脳にとって良いトレーニングになります。飼い主との積極的なスキンシップや声かけも、犬にとって大切な刺激となります。
定期的に健康診断を受ける
シニア期(7歳~)に入ったら、半年に一度は動物病院で健康診断を受けましょう。認知症の症状(ぼーっとする、動きたがらない等)は、関節炎の痛みや内臓疾患、脳腫瘍などが原因で起こることもあります。
定期的な検診は、そうした他の病気を早期に発見し、認知症と正しく区別するために不可欠です。また、健康なうちから獣医師に愛犬の様子を把握してもらうことで、小さな変化があった際にもすぐに相談でき、認知症の早期発見につながります。
茶屋ヶ坂動物病院|健康診断のご案内小さな行動変化を見逃さない
認知症は、「年のせい」として見過ごされがちな、ごく些細な行動の変化から始まります。「最近、名前を呼んでも反応が鈍い」「夜中に起きて鳴くようになった」「トイレの場所を間違える」といった以前はなかった行動に気付くことが、早期発見の第一歩です。
日頃から愛犬の様子をよく観察し、「いつもと違う」と感じたら、たとえ小さな変化でも記録し、獣医師に相談することが重要です。
認知症と似た症状の病気にも注意が必要
犬の認知症に見られる行動の変化は、認知症以外の病気が原因で引き起こされている可能性も少なくありません。
「もう年だから」「きっと認知症だ」と飼い主が自己判断してしまうと、治療可能な別の病気を見逃してしまう危険性があります。中には、強い痛みを伴う病気や、命に関わる重大な病気が隠れていることもあります。
愛犬に行動の変化が見られたら、まずは動物病院を受診し、認知症以外の病気の可能性を調べる「除外診断」を行うことが非常に重要です。認知症と似た症状を引き起こす主な病気とその症状は、以下の通りです。
| 病名 | 症状 |
|---|---|
| 脳腫瘍・脳炎 | 脳が圧迫されたり炎症を起こしたりし、旋回や性格の変化、けいれんなどを起こす。 |
| 関節炎 | 関節の強い痛みにより、動きたがらない、特定の場所(トイレなど)に行くのを嫌がる、痛みで夜鳴きする、攻撃的になるなどの症状が出る。 |
| 甲状腺機能低下症 | ホルモンの異常により代謝が低下し、元気がなくなり、ぼーっとする時間が増える。 |
| 視覚・聴覚の障害 | 白内障や緑内障、難聴などで周囲の状況が分からなくなり、不安から夜鳴きしたり、物にぶつかったりする。 |
| 腎臓病・肝臓病 | 体内に毒素が蓄積することで、意識が朦朧としたり、元気がなくなったりする。 |
| クッシング症候群 | ホルモンの過剰分泌により、落ち着きがなくなる、多飲多尿(トイレの失敗につながる)などの症状が見られる。 |
愛犬の小さな変化に寄り添いましょう
犬の認知症は、シニア期を迎えればどの犬にも起こりうる身近な病気です。夜鳴きや徘徊などの行動変化に、飼い主は深く悩まれるかもしれません。
大切なのは「年のせい」と諦めず、愛犬が発する小さなサインを見逃さないことです。認知症は完治が難しくとも、早期の対策や適切なケア、環境の見直しによって症状の緩和や進行を遅らせることが期待できます。
愛犬の変化に戸惑ったら、まずはかかりつけの獣医師に相談し、健やかなシニアライフを一緒に目指しましょう。











